演劇「都市の予感」オンライン公演

演劇「都市の予感」オンライン公演 

公開方法 youtubeにて公開 

https://youtu.be/lb-t6oSwVUQ

出演 藤井泉 ヒスロム(加藤至 星野文紀 吉田祐)々(野崎将太 樋口侑美 上村一暁 内藤惟基 橋本粋花 出口真愛)上平千晶 加藤ちえ子 野村誠 里村真理 マイアミ

音楽 野村誠 

舞台設置 ランチ!アーキテクツ 々 八田人造石 青島工芸 

衣装製作協力 2m26  /古/臭/過/ぎ/る/°/ 宮原由紀夫

劇中料理 上村一暁

映像撮影 蒼光舎 

スチール写真撮影 岡田和幸

サポート 里村真理 

脚本補助 小林欣也

劇中絵画・告知ビジュアル 加藤ちえ子「思い出の旧大阪国際児童文学館ー文化と自然の調和はあった」   

企画・脚本 吉野正哲(マイアミ)

会場 会議船バッブンカッ! 

 

図書館に犇く都市の予感〜演劇「都市の予感」のステイトメントとして

  

イメージとしては舞台の演劇というよりは広場の演劇だったり教室の演劇だったりします。または地域の演劇、場の演劇でもあります。その地域や場の演劇のネットワークを作りたいという思いがあります。子どもたちの放課後の、地域の広場での演劇遊びの蓄積が伝統に育って世界を形成して行くイメージがあります。みずみずしく健やかなアイデアの連鎖をサポートするプラットフォームを作りたい。壮大過ぎるヴィジョンではありますが、「思い描くのは自由」という事にして、可能な限り壮大にイメージしています。

その演劇をまずは大人たちが率先してやってみせる。四苦八苦しながら七転八倒、試行錯誤して失敗に失敗を重ねて最終的に大失敗に終わったとしても見た人の中に小さな勇気が芽生えたなら大成功。安心して失敗を出来る地盤固めならぬトランポリンの設置をしてみたい。地面に激突して挫折しない様に、転んでもすぐ跳ね起きれる様に。

未経験者同士が演劇ワークショップを通して演劇をゼロから模索して行くドキュメンタリーみたいな、そんな演劇をイメージしています。これは失敗する事も演劇の一部に取り込んで提示する事で、完成品としての演劇とはまた違う「作物としての演劇」ではなく「畑としての演劇」のような、「場の演劇」というようなものを提示してみたい。「畑は毎年一年生」八ヶ岳のレタス農家のお婆さんから教わりました。危惧するのは完成された作品としての演劇を目指してしまい、現場にそれが出来ていなという不安や焦りが生じる事。そこは事前にちゃんと参加する人たちに伝えておくこと。

 

大阪自治体問題研究所という団体が『都市と文化』という冊子を出していてその冒頭に『都市の文化』(ルイス・マンフォード著)を紹介しています。この本は日本の経済学者として、いち早く環境問題に取り組んだ宮本憲一さんも影響を受けた本だという事で、何人もの人が命がけで守り引き継いで読まれた重要な本としてマンフォードの『都市の文化』を著書の中で紹介しています。 

 

 「ナチの占領下、強制収容所にいたあるポーランドの建築家は、この本こそ戦後の都市再生の教科書だと考えた。彼は処刑される時に、他の建築家にこの本をゆだね、その建築家は、また処刑される時に、この本を守るように次の建築家にゆだね、これがつづいて戦争が終わった時に、この一冊の本が残ったという。このように命を賭けて残す価値のある本は、そうざらにあるものではない。」(宮本憲一『思い出の人々と』藤原書店「マンフォードの「人間のまち」より抜萃。)

 

マンフォードの『都市の文化』をリレーしたのがポーランドの建築家というのがヒスロムのポーランドでの活動とも接点が作れそうだと思いました。ヒスロムがポーランドで運んでいるのは石ですがこれを本と喩えたらどうなるでしょうか?或いは100人の人の手で運ばれた東ときわ台の鉄筋コンクリート製の御柱が本だったとしたら。南太平洋の石貨はある意味、相当「本」な「石」なのかもしれません。それぞれの石貨の運ばれてきたた来歴を嬉々として語り継ぐ人々は、石の図書館と化した島で口述で伝承するスタイルの読書に明け暮れている民なのかもしれません。逆に図書館に収蔵されている本もある意味で石なのかもしれません。持ち運びできてデジタルデータ化されていないという意味では石に近い。日持ちもする。本はか弱い石なのかもしれない。本来なら石板を束ねられたら良い。ならば、大阪を代表する古典芸能である文楽の人形はなんだろう?もしかしたら文楽人形は場を作り出す関節を持った本なんじゃないか?

 

大阪自治体問題研究所の『都市と文化』の冒頭には『場を作る』ことに関するマンフォードの『都市の文化』からの印象的な抜粋箇所がありました。今回演劇にしたいと思っている「都市の予感」に繋がる話になる予感がしています。

 

 「マンフォードは、「都市の文化は究極的にはその高度な社会的表明としての生活の文化である」と語り、「国土計画と都市計画の任務は、もっとも豊かな人間の文化ともっとも充実した人間生活を維持するような地域をつくり、あらゆるタイプの性格や気質や人間的感情に安息地を与え、人間の深い主観的要求に対応する客観的な場を創造し、保存することである」と締めくくっている。

 

 つまり、マンフォードは財政的に破たんし、専制支配によって「死者の都市」 となった巨大都市を再生する原動力を市民の生活文化に根差した「場」の創造に託しているといえよう。世界大恐慌と迫りくる世界大戦の破壊的状況を前にして、巨大都市の歴史的再生を批判的に眺めたマンフォードの視点から、今の大阪はどのように、分析できるだろうか?」(『都市と文化』(社)大阪自治体問題研究所編 「創造都市と社会包摂」佐々木雅幸著 より抜萃)

 

本を運ぶ事に関して以前書いた文章からの抜粋を以下に。場を作る事と、本を運ぶ事を繋ぎ合わせて「都市の予感」を考えてみたいと思っています。 

 

読み物としての本以外の本。例えば運ぶための本。サッカーボールはひたすらに騒々しく蹴られコートの中で跳ね回わる。そのサッカーボールの如く読まれる事も無く本が運ばれまくり、移動し、パスされていくことで、読んでいては不可能な速度での新しい運動が生まれる。これを今、運読と名付けてみる。

 

ひたすら運ぶ。本を図書館から借りては運び、そのタイトルすら忘却の彼方に消え去りひたすらその重みに集中する。読書の卵を温めるように。その様にして図書館から何度も何度も借りては運び、様々な場所に本を連れて行き本を動かす、本を文字通り揺さぶる。本からのパワハラとしての「読む」事の強迫が生み出してきた抑鬱状態「読めない」「読まない」の挫折感を分解する為に本を運ぶ事で抵抗する。本の動いた軌跡を記録する。書影を撮影する。まだまだ読まない。いつまでも読まない。読書が熟し発酵するまでは、ただひたすらに運ぶ。揺さぶる。そうするうちに卵が温まってきて、殻が割れて読書の雛が孵るかもしれない。これが運読。ラグビー選手たちがスクラムを組み、抱き抱え、自分より後ろの人へ、後ろの人へとパスをしていく、あのラグビーボールを本に置き替えてみる。すると視界が急に開けてラグビーの本当の意味がわかってくるような気がする。「ラグビーボール」は「サッカーボール」より扱われ方が本に似ているかもしれない。ラグビーボールの様に後続の読者へ読者へと回され続けたボールが所謂「古典」である。古典は時代という試合が終わってもパスされ続けているラグビーボールである。

 

さて私の場合もこの運読期間が5年はあった。しかし私は運読者としては消極的運読者だった。図書館で本を借りるだけ借りて目を通さない事に罪悪感、不完全感を感じていた。つまり本からのパワハラにあっていた。むしろ完璧な読書としての運読、というものを考えてみたい。Official髭男dismの「プリテンダー」の様な。始まる前に終わってしまった、フラれる前に諦めてしまった読書体験の墓標としての本と連れ添って旅に出る。もしかしたら訪れた先で1ページだけ開いて禁断の読書をしてみるかもしれない。その場で無作為に開いたページには、人生への重要なメッセージが描き込まれている。かもしれない。

 

思えばこれまでも本はずっと運ばれてきた。ランドセルは同じ本を一年間、何度も運んでも痛まない為の形をしている。聖書は繰り返し読まれる本であるのと同時に、繰り返し運ばれ、時には海を越え、時代も超えて運ばれ続ける運命を背負い続けている本だ。

 

もしかしたら、読むというのは運ぶ事に他ならないのかもしれない。多分ほとんどそう言って間違いないという気が今しがた、した。読む事によって人は本を運ぶことが出来るようになるのだ。レイ・ブラッドペリの『華氏451』には「本の所有」が禁じられた世界が描かれていている。ラストシーンでは選ばれた者たちが世界の重要な書物を記憶して集まる。このシーンが本を読む事が本を運ぶ事に等しいという事を良く現していた事にも続けて気づかされる。

 

運ぶために読む。これが読書における極意ではないか。

 

さあ、心を、新たにして、本を、運ぼう。