山本麻紀子「ノガミッツタペストリー移動展覧会」感想文「コガミッツダイアリー」

山本麻紀子「ノガミッツタペストリー移動展覧会」感想文「コガミッツダイアリー」

 

「まっこいとまっこりとほっこり」 

友だちの展覧会を見に行ったので感想を書く。どのみちこの様な文章は読む人は読むし、読まない人は読まない。いっそ読みやすく改行したりすることはやめて文字のタペストリーのイメージで一切改行無しで書くことにする。2021年1月23日、友だちのまっこい(山本麻紀子)の展示を観た。雨の中歩いて家族3人で向かった。壬生から東九条へ。京都駅八条口のイオンモールのコメダ珈琲で途中暖を取った。書かないといけない演劇の脚本の事で、ずっと上の空だった。何度もまりちゃん(うちの奥さん)から注意された。会場に着く手前にまっこいがバイトしていた「ほっこり」の前で売ってる野菜を見ていたらのせでんアートライン2019でお会いした山口恵子さんが店の中から出てきて声をかけてくれた。恵子さんは演劇をやっている方で東九条に新しく出来たE9という劇場でお芝居をしたのを見に行った事がある。E9はEastのEで東九条という意味だと今更気づく。その作品は地域の子どもたちともワークショップをしながら作り上げた作品で、光と音と動きと表情の演出が印象的なお芝居だった。その公演の情報を正確に記述しようとネットで調べたらその他にもこれまでにいくつもの公演を東九条で行われてきたという情報が出てきて、どれもズッシリとした重みを感じるものでここでサラッと書くのも憚られるので、またの機会にお話を伺えたらと思い、ここでは割愛させてもらう。東九条には東九条マダンという地域住民の手作りの地域のお祭りがある。「マダン」は韓国語で「広場」という意味でマダン劇というステージを使わない劇もある。新しい伝統と言われる様な、古い仮面劇を現代にアップデートした権力批判の風刺をふんだんに盛り込んだ即興性や場を巻き込む要素を持つ劇だと聞く。広場という言葉は韓国の人たちの大切な言葉らしい。台南に行った時に小さい赤いプラスチックの椅子「紅椅頭(アンイータウ)」が台南の人たちを表すシンボルとして大切にされていたことを連想する。場。公園よりもっと生活や地域文化、風習、伝統に関する日常的な行事を行う場になっているようだ。おそらく地域を紡いでいくのに大事な場所なんだろう。そこで劇が行われるのは不思議な文化形態に思える。町内会の催しで演劇をやる感じなのか?京大の西武講堂や吉田寮の芝居みたいなものを地域の住民たちが広場で行う感じなのかもしれない。韓国には民衆文化というものが生きた状態であるそうだ。日本の御神楽みたいな男寺党(ナムサダン)という韓国内を巡り歩くサーカスとテント芝居とちんどん屋さんを合体させた様な芸能集団が日本の伊勢太神楽にそっくりだと小沢昭一が『日本の放浪芸』というビデオの中で言っている。公園より自由で、自治ができている場で賑やかな音楽も可能な。なんなら煮炊きしてご飯も食べれたりしたら嬉しい。『シルム』という韓国相撲を描いた絵本を持ってるけどマダンはたぶんあの感じなんだと思う。「ほっこり」には後で野菜を買いに来ることにして、まっこいの展示に向かう。京都市地域多文化交流ネットワークセンター「希望の家」が会場だ。(移動展示なので会場は時期によって異なる)もともとは地域の在日コリアンの人たちが日本の文字の読み書きを覚える為の識字教育、識字学習をする為の小さな家だったと聞いた事がある。それが新しく大きな施設になったのがここらしい。私も何度かまっこいの地域の人たちを対象にした刺繍の会に参加するためにここに足を運んだ事がある。ここ以外でも「ソルカフェ」というお店の2階のスペースでも刺繍の会は行われて一度だけ参加させてもらった。刺繍は人と面と向かって話さなくて良くて会話がしやすい場だと思う。一枚の布に一緒に刺繍するという行為は長い時間一緒に同じ事をしながら過ごせる状況を生みだす。刺繍ってすごく時間がかかる。絵の具だったら1日で済むのが刺繍だと10人で1年くらいかかるかもしれない。カーペットみたいに大きな布に刺繍しているから、沢山の人の参加に耐えうる場が出来る。手元見てたら良いから長い時間普通に初対面の人たちとそこにいる事が出来る。歌ってこんな感じの場の積み重なりの中から生まれてくるんやろなと思う。刺繍糸は地域の子どもたちと地域の草木から染めた糸や市販の糸を使っている。市販の糸を混ぜるこだわりのなさ、良いと思う。時間をかけるのは良いけど時間がかかり過ぎるのは良くない。徹底する部分としない部分は分けたらよくてそこに縛られがちな自分は反省する。布に縫い付けるのは地域の老人ホーム『のぞみの園』の中庭にまっこいが関わって小さな畑や植物園?を利用者の老人、施設のスタッフと一緒に作った時の作業の記録。いたって普通というか順当なプロジェクトだけどかえってその順当さが珍しい。捻ったり想像力豊かな事を誇示していないからこそ、このプランに着地できる。何が必要かをとことん考えてこのプランに落ち着いた事がわかる。その庭づくりの記録を地域の別の場所に持って行って地域内外からの参加者を誘って協働で刺繍する事で閉じられた老人ホームでの出来事が風通しの良い外の世界に広がる。中庭を作ったのも、その出来事を外に持ち出して刺繍したのも「風に触れさせたい」という思いがある様に思える。風は流れるものなので季節風とか台風とか遠い遠い場所から吹いてきたりする。岡本太郎は朝鮮半島の鳥竿、ソッテ、長柱、チャンスンを心象風景、遠い記憶の風景に繋がるヒントとして、コリアンの人たちの踊りや造形センスに滲み出す躍動感をモンゴルのオボーという不思議な造形物との繋がりを考えながらそこに吹き付ける風について韓国滞在記の中で言及していた。岡本太郎は詩人で人類学者なのでその表現は空想力豊かながら洞察力もある見事なもので私にはそれをここで再現することはできないけど、とにかく風、風にさらすこと。人でも洗濯物でも干物でも風に晒すと良いことが起こる。という普遍的な知がこの世にはあるんだと思う。風に触れさせて、更に持ち歩く。まっこいはその布をタペストリーと呼んでいて、多分ちょっとタペストリーの解釈間違ってると思うけど、それを畳んでカバンにしまって、持ち運ぶ。結構軽いらしい。そうやってどんどん老人ホームの出来事を自分の足でバスで自転車で持ち運んでこの布を揺さぶった。ほんの少しでもそれが運ばれた事で世界がその度にほんの少しだけ、めちゃくちゃ少しだけ絶対に変わって欲しいと思う。Amazonの活動と比べたらまっこいの活動なんて物凄く微力すぎるも良いところだろうけど、地域の片隅にこんなに骨の折れる活動を自分の活動として担って責任を持って未来に運んでくれる人がいる事は貴重な事だと思う。僕には見えてないだけでそういう人が沢山この世には存在しているんだろう。「希望の家」を後にして「ほっこり」に野菜を買いに行く。中から山口恵子さんが出てきて「書」の展示をやってる事を教えてくれる。小松満雄さんの『人生は自分であるく』というタイトルの展示だった。小松さんは車椅子に乗って身体に障害もある中で書という表現に出会った。「あるく」というのは「生きる」という意味だろう。「自分の人生は自分で生きる」当たり前で簡単な事のようだけど、そう言い切れる生き方が出来てるかと考えると自信がない。小松さんは言葉を一言話すのにも、発音するのが難しい中で、笑顔で沢山の事を伝えようとしてくれた。恵子さんが小松さんにしっかり寄り添って聞き取りにくい話を僕たちに伝えてくれた。その寄り添う力を見習わないといけない。書の並べ方についてもそこに物語があることを教えてくれた。書の額装はまっこいが手伝ったらしい。僕も一人前に書がわかるつもりで眺めて「みかん」と「ひとり」の文字が好きだった。小松さんの書をシルクスクリーンにして手拭いにするのはヒスロムの至くが手伝ったそうで、大きく真ん中に「恋」とシルクスクリーンで印刷されたその手拭いを買うかどうか悩んで値札を探したが見つからず、そんなに高くないんだろうけど、(500円だそうです)今回は買わない事にして店を出た。「ほっこり」は小さな居場所で、お店で、スペースなんだけど、もしかしたらこういう場所こそが最先端の場所なんじゃないかと、帰宅後ふと思わされた。スマートでかっこいいスケールのでかい共存とかじゃなくて、地道で小規模だけど、そこにまず誰かがいる事から居場所は作られていくから、ここにいるぞと腹を括って居続ける人がいて、その人たちがそこを更にどんな人でもいて良いぞとしっかり示して寄り添う事が実現しているという意味で凄い場所なんだと思う。ノガミッツプロジェクトの記録冊子が無料配布されていたのを貰うのを忘れたから今度それをもらいに行った時に「ほっこり」に寄って恋とプリントされた手拭い買うか買わないかはそれまで悩んでいようと思う。それと表題の為に言添えておくと、この日は結局マッコリは飲めなかった。