ヒスロム「仮設するヒト」展レビュー

  

ヒスロム「仮設するヒト展レビュー

 

時間が蒸発して二度と戻って来れない場所に消えていってしまう。この世界から時間が消滅していく。時間が時間の循環の環から出て行ってしまう。同時に人間らしく生きられる場所も無くなっていく。時間と場所の喪失が世界を覆っている。土が汚染されてしまう。土には時間と場所が宿っている。種はその二つを孕んで土の中で眠っている。

 
都市生活者でありながら、難民である。住居を持ちながら時間と場所を失っている。コミュニティーを喪失している。

 
その失われていく時間と場所を取り戻す。その舞台はニュータウンの造成地だ。彼らはそこをサイトと呼ぶ。造成地でありながら自然の廃墟でもある。その境界の上で彼らは遊び、彼らは出会う。

 
「ヒスロム」せんだいメディアテークで展示中。まだまだ行列は出来ていない。

 

ヒスロムの事は前から知っている。今は海外に行っている須川咲子さんから紹介してもらった。もののついでにではなく人から誰かをわざわざ紹介してもらうことは考えてみたら滅多に無い事だ。須川さんの家での初対面だった。うちの奥さんと一緒に会いにいった。須川さんが紹介してくれた理由は「どっちも優しい感じだから合うかな〜と思って」とかそんなふんわりした理由だった。人気バスケ漫画「スラムダンク」に出て来そうなカッコいい若者たちだった。何を話して良いのかわからず金麦をせっせと飲んでとにかく何か喋った。皆丁寧に応答してくれた。全く内容は覚えていないけど、ヒスロムにはあまり良い印象は与えなかったと思う。私は酔うと人を批判する傾向がある。次に会った時はちょっと素っ気なかった気がした。気のせいかもしれない。

 

その後、時折一緒に何かする機会があった。家のブロック塀壊しを一緒にやってお肉を食べたり、新築の住宅の内装塗装を一緒にやって昼飯を食べたり。

 

パフォーマンスも何度か観ている。3000円位するパフォーマンスに誘われて、いまいち良くわからなくて高過ぎると思った事も今では良い思い出だ。そのパフォーマンスに使われていた鬼瓦も今回の展示には置いてあった。

 

2016年の高山建築学校でも一緒になった。これは10日間一緒だった。今回の展示にも出展されているコンクリートの断片は高山建築学校の敷地内の地中に日頃は安置されていて、展示の度に彼らはそれを掘り返し、終わればまた埋め戻す。その穴の深い事、大きい事には唖然とさせられる。彼らの美徳として肉体労働を厭わないというのがある。この美徳が高山建築学校とヒスロムを引き合わせたような気がする。 

高山建築学校ではヒスロムの制作物の取り扱いで一悶着あった。

 

高山建築学校の流儀として、そこで制作したものは持ち出さない。というのがある。と言い出した人がいた。

 

実際はそこは微妙なところがあり、建築学校なので基本的に敷地内の造形物には地中に基礎があり、そもそも持ち出せない物である場合が多い。そして制作物を展示をする予定がある人がこれまではあまりいなかった。参加者は基本大学の建築学科の学生がメインだった。講師を除いて作家やアーティストの参加者は少なかった。

 

高山には作りかけのものを含めて歴代の参加者たちの作業のアーカイブ群が敷地内に点在している。映像や文書の記録は少ないが作業の記録が全部物体として残っているので、そこから考古学者の様に歴史を読み解く事もできる。 

その事から高山建築学校では価値の自治が成立している。敷地内の造形物の価値を高山建築学校のコミュニティー内で管理している。参加者がそれに触れて語り合い自由に解釈する雰囲気とたっぷりした時間がある。

 

オークションに出せば高値が付くものでも、高山建築学校の敷地内にあれば全部触れるし寝そべったりもできる。基礎があって根付いているから、周りに生えてる木や草と同じ様な扱いで認識されている。

 

これを美術界に持ち込んだ途端に触る事が出来なくなり解釈するのも難解な事の様に思われ始め、価値の自治は損なわれる。作品は美術の世界で評価を受けるかもしれないが、その為に失われる何かがある。

 

まだその問題は残っている。

 

高山建築学校でいつも思うのは、参加者の学生たちの進路の事だ。ヒスロムも3人のメンバーのうちの2人は清華大学の建築学科の出身だ。彼らは建築学科の卒業生だが、やってる事は建築の設計ではない。どちらかというと建設作業の解放運動をやっている様に見える。

 

穴を掘る、木を削る、根っこを掘り起こす、埋め戻す、家を解体する、瓦屋根の土で泥団子を作る、梁に使う丸太を川に持って行って一緒に旅する、単管を組み足場板を展示スペースにする、コンクリートをうつ、アスファルトを敷く、角材を自力で製材する、2トンダンプをレンタルして運転する。

 

建設作業、土木作業をベースにしているものが多い。建築と土木が混ざっている。土に石が混じっていて木が生えている。ヒスロムはよく裸になる。虫、鳥、動物。それらの仲間でいようとする。それらの生物たちも皆、土木作業員であり建設作業に従事する者たちだ。

 

彼らは利権の為には働かない。純粋に住処を作り子孫を残す為に働く。

 

ヒスロムはそれを模倣しているように見える。そこには通常の工事現場にはない時間が流れている。人間の世界から見たら犯罪的な程マイペースである。工期を無視している。人間世界の開発のスピードを予め度外視している。

 

その時間を彼らは映像記録に残す。これによりその時間の性質の差異を都市生活者に指し示す事が可能になる。アートの力である。

 

彼らが展示するのは、私たちが普段関心を持たず見過ごし通り過ぎている、失われ行く、古き街を構成した木材、コンクリート、鉄などである。展示はその者たちへの鎮魂歌であり存在への讃歌である。

 

木が木材に製材されて家になると木が土に生えていた事は想像力を使わないと分からなくなる。

 

木は土や太陽の生産性から生み出される。それは人間の為の物ではないが、人間は自分の物のように考えて、伐採し造成地を作る。

 

そこに関与する労働者たちの時間も労働も彼ら自身のものにはならない。彼らは自らの作業を記録する資格も剥奪されている。

 

費やした時間を自分の生活環境に残せない。この事が人を不幸にする。自分の時間の形跡を生活環境内に蓄積することが出来ない。

 

稼いだ金でスピーディに乾式工法で誰かが建てた家を買いそこにすむ。その住処を作るプロセスには何の関与も出来ない。

 

本来の贅沢とはこのプロセスへの関与の度合いにある。その中身をすり替えられ、関与の度合いが低くく、全てお膳立てされた物をラグジュアリーとか贅沢と思い込まされている。空っぽの贅沢。 

 

派遣切り、サービス残業、長時間労働、非正規雇用、格差社会、オリンピックボランティア。

 

の時代の立役者、竹中平蔵 

とその対抗馬、ヒスロム

 

私の中で「竹中平蔵vsヒスロム」の図式が浮かびあがる。

 

今回の会場のせんだいメディアテークはアーカイブデーターのプラットフォームではあるが図書以外の物質は可能な限り所蔵しないアーカイブセンターであるらしい。ガラス張りの施設が物置きになるのは似つかわしくないだろう。そこに大量の物がやってきた。現代人はみな老いて物質の逆襲にあう定めだが、メディアテークは逆襲を受ける前に学習をしておこうという身構えを示した。ヒスロムの執拗なまでの映像アーカイブの展示はオリンピックと肉体労働の起源の一致を指し示し、人類全般のあらゆる作業に生命の誉れを再び降り注がせるために、この時期にせんだいメディアテークとの協働により実現したものだろう。

 

あれだけの空間を埋め尽くしてパワーのある展示ができる作家はそうそういるものではない。いまヒスロムはせんだいメディアテークとがっぷり四つ組んでいる。

 

後はこの相撲を観に来る来場者数が増えることだ。そしてその中から沢山の解釈や批評が生まれてくることだ。せんだいメディアテークの敷地内での価値の自治を目論見ることだ。 

私たちは私たちの言葉によってヒスロムを解釈して発信しなければならない。有名な批評家の解釈を待っていてはいけない。そうでなければ価値の自治は生まれてはこない。それは私たちの役目なんだ。

 

ちょうどヒスロム展のオープニングと同時に仙台駅前で全力ボーイズなる男性アイドルの無料撮影会が開催されていた。そこにヒスロム展と比較して圧倒的に多数の女性ファンが行列を作っていた。

 

先日奈良国立博物館でみた「第70正倉院展」はその数百倍の行列が出来ていた。人々は代々受け継がれて来た宝物をこの目で一目見ようと押しかけていた。

 

それと比べてヒスロム展の来場者数の少なさよ。

 

私にとってヒスロム展は正倉院展の数百倍の価値のある挑戦である。この挑戦を私たちはもっと、もっと、もっと応援しなければいけない。

 

そうしないと私たちの時間や場所はこの先もどんどんこの世界から失われていく一方だろう。

 

私にとってヒスロム展のレビューを書くこと、それは竹中平蔵イズムとの聖戦であり攻防戦なのだ。私は竹中平蔵の作ろとうする現代の労働環境と労働観にただ指をくわえたまま無残に惨敗するだけなのか?言葉の一矢をも報いることも出来ないのか?私は嫌だ。私は諦めたくない。

 

いまガラス張りのせんだいメディアテークの六階から、まばゆい光がこの世界に溢れ出している。この可能性の光を拡大して都市に伝えて行くのは私たちの役目だ。

  

 

地振り編集委員 マイアミ